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読んでいて「わけわかんねーよ、バカ!」と思ったら、気持ちよく本をまっぷたつに
してもいいと思う。無理して読むな。書き手が悪いのかもしれない。そんな本を無理
して読み続けると、難解な本こそ価値があり、そんな自分はすばらしいだなんていい
はじめちゃって、遂にはヴォイニッチ手稿(解読されていない古文書)あたりを崇拝
するようになるから。


読書は苦痛を伴うものじゃない。国語の授業や読書感想文、仕方なく読まされた経験
が、人の読書嫌いを推進する。読みたいものを、読みたいときに、読みたいだけ読む。
それで構わない。難解な言葉でまくしたてる書評、珍妙奇天烈な造語マニア、日本語
が不自由な外国かぶれの「識者」にだまされてはいけない。彼らは教祖なんだ。そう
いう宗教の教祖をやって、ご飯を食べてる。入信したいならまだしも、興味がないな
ら近づかないことだよ。


本はそもそも、いやいや、文字はそもそも、意思を伝え残す手段であったはずで、読
むのが苦痛だとか、意味が理解できないなんて著作は、存在価値がまるでないのと同
じこと。「わけのわからないことをいう人間」を誉めそやす傾向があるけれど、そん
な人にはね、いってやりたいことがある。「今から俺が第三くじら座言語で本を書く
から、おおいに崇め奉れ 」って。いきなり第三くじら座言語なんてものを話だして、
自信満々に偉ぶったとしたらどうだろう。いい病院を紹介してくれるのが関の山では
なかろうか。しかし、本の上ではそれが通用する。本は崇高で高尚だと信じている残
念な人がいるからね。


必要は発明の母。文字も本も、必要だから産まれてきた。そこには神秘性なんてない
んだ。それをいまさら現代人が宗教性を付加して、神様のようにあつかうってのは滑
稽じゃないか。文明人とは思えない。


こういう退化を好む人間に本の話をしてはいけない。本は必要を満たすために産まれ
たのだから、必要を満たすために死んでいくべきなんだ。「こんな物語が読みたいな」
「この問題の解き方はどうなのかな」「昔の人はどうしていたのかな」いろいろある。
これらを満たすためだけにあって、それ以上の価値も意味ない。


だから、売れないより売れた方がいい。人にものを伝えるための方法なんだからね。
でも、売れなかったからといって、ダメだってことじゃない。でも、売れた本は全部
ダメだっていう人の言い分は聞いちゃいけない。


ふつう物事をはじめるときは、誰かに専門家に教わるものだけれど、読書は不思議な
もので専門家に教わっちゃいけない。まずは本屋さんに行くんだ。そこで表紙でも、
タイトルでも、書き出しでも挿絵でもいいから気に入ったものを買う。買ってみて、
違うなと思ったら、その本は本棚にしまって新しい本を探しに行こう。何度か失敗す
るうちに、自分の好きな本がどのようなものか、直感的にわかるようになるから。


読書はもっと自由であるべきだと思う。義務や知識の多少による序列なんてつまらな
い。同時に10冊読めだとか、10分で1冊読めなんてのもいらない。なんぴとの束縛も
受けない読書。古い人は読書は宇宙だといったそうだけれど、宇宙空間に放り出され
たような読書こそが、本当の読書なんだと思う。


だから自分は、こういうコラムでも「思う」と書く。 子どもっぽいからやめなさいと
先生にいわれたであろう「思います」を使ってやるんだな。読書は自由なんだから。 
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