ウルトラマンといえば、誰もが知っている特撮シリーズであるが、知名度に比して人気度はどうかといえば辛い部分がある。その他の特撮シリーズに完全に押されていると申し上げたほうがいいかもしれない。これはひとえにウルトラマンの制作体質の問題で、その他の特撮もののように毎年制作できない事情があり、知名度はあっても人気が継続しないのだ。隔世作品とでもいうべき状態のウルトラマン。ウルトラマンを泣かせたのは誰か。泣いているのはウルトラマンだけなのか。批判的な感想を持ったものの、なぜウルトラマンはダメになったのかという理由がやはり一族の影響だと確信できた点については大いに役立った。内容が肌に合わない、許せないから読む必要がないと言い切るにはもったいないようにも思う。


 本書は同族経営、一族経営によって傾いたとされるウルトラマンシリーズに対する批判への火消しにかなりのページが割かれており、最後までどこの誰が悪い、ウルトラマンを泣かせたのはこいつだと名指しされることはない。大人の事情をちらつかせ、暗に「テレビ局が悪いよ」「スタッフが悪いよ」と言いたげなのが、実に経営者としての資質のなさを感じさせる。


 経営に携わるものとして、最終的に責任をとるのは誰かだけは認識して欲しかった。責任をとれないならば、旗を振ってはいけないと私は思う。ウルトラマンが手のひらからこぼれ落ちた後、氏はコンテンツビジネスの会社を立ち上げたが、中国のスタッフの反乱に遭ったのでケツをまくって逃げている。現地スタッフの論理が日本人からすれば横暴なのは理解できるが、そういったリスクを含めて検討し、海外への進出を決定したのではないのか。先見の明がないというのは結果論になるので口にしないが、やはり経営者としては不適格だといわざるをえない。厳しい言い方ではあるが、中国人が悪い、悪いと連呼したところで、自身の能力不足は隠しようもない。


 ウルトラマンを育てたのはどこか。生んだのは円谷だが、育てたのは実のところテレビ局の制作スタッフだ。巨大な人形が動き回るスーツアクトは、それそのものに魅力はあっても継続的な映像コンテンツにはなりえない。 結局、誰かが話をつくってやらなければならない。その話づくりをしたのがテレビ局側。金を出すのもテレビ局。ウルトラマンはこの時点ですでに他人の子だった。氏は東映やTBSと決別したことに関して誇らしげだが、生むだけ生んで捨てていった親が、ふらりと戻ってきて里親から子ども奪っていく。私の目にはそんな風に映った。氏は相手の失敗をあげつらうばかりで、自身の根本的な問題には触れない。これではまともな組織になるはずがない。


 氏はウルトラマンが偉大なるマンネリではいけなかったのかという。つまり、水戸黄門のように悪者をとっちめて、一件落着というというものだ。ウルトラマンを平成の時代に合わせて変質させていくことが何よりも許せないようで、一族が創ったものに手を出すなといわんばかり。それはわかる。ならばなぜ、ウルトラマンシリーズをやり続けないのか。つまり、ずっと同じキャラ、同じ敵、同じ展開を繰り返せばいい。それ以外に変質を防ぐ方法はない。時代の奔流の中にあって、継続的に展開するコンテンツを真空保存することは難しい。仮面ライダーはもはやかつての仮面ライダーではないが、それでもコンテンツとしての価値は存在し、高まり続けている。行くでもなく、引くでもなく、どっちつかずの状況で目先の金を拾い続けてきた結果が現状であることを氏は理解していない。「ウルトラマンはそんなじゃない、やめてくれ!」と一声あげれば済んだことだ。それができなかったのだから、ウルトラマンが改悪されたなどという権利はない。

「こんな親から生まれたくなかった」
 親にとってこれほど辛い言葉はない。しかし、その心配はない。ウルトラマンはしゃべらないからだ。


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