登山不適格者とはなんだろう。近年特にブームとなっている山登り。富士山が世界遺産に登録された際、半袖の白いTシャツにジーパン、本屋で貰ってきたと思われるビニール袋という出で立ちで単独登山をしている人の姿が映し出され、(一部の人間とはいえ)不適格者の存在を強く印象づけられた覚えがあります。「最近の若者は」はまだまだ若輩、未熟だからこそ大人の寛容を持って許すべきものですが、「最近の年寄りは」となったら、我々大人はどうすればいいのか。子ども(若者)たちにも示しがつかない。年だけとった子ども。それが登山不適格者なのだと思います。

 
 無計画、準備不足の登山は、冷蔵庫に入ったり、食材の上に寝転んだりしてネットに写真をアップすることと大差ないのではないかと。頻繁に起こる遭難、滑落事故の報道を見るたびに若者を笑ったりできないなと思うわけです。


 私自身、アウトドアが好きで、釣りが趣味ということもあり、ちょっとした沢に入ったり岩の上を飛び歩いて釣り場を目指したりということがあるのですが、その際の装備は軍隊の「それ」です。つまり、偵察兵が山林に分け入り、敵情を偵察する際の装備。両手が自由になるよう設計された機能的なバッグ、滑落などの事故を最小限に抑えるシューズ、現在地を調べる道具に加えて水分や食料といった装備を携えた上で、とにかく軽装になるようにする。また、釣れるからといっていきなり厳しいところに行くのではなく、徐々に慣らし、慎重過ぎるくらいに練習したうえで赴きます。ちなみに川の状況も知らずに中州に立って流されたり、取り残されたりするお年寄りもかなりの数がその地域以外からの遠征者、経験の少ない釣り人だったりします。「せっかくきたのだから」という思いが理性を吹き飛ばし、無理な釣行を行ってしまうようです。その構図は登山と何ら変わりません。


 書店に行けば日帰り登山、車中泊などといったもののガイドがたくさんありますが、本書でも触れられているように、「日帰り=安全」などというものは幻想でしかありません。日帰りはその日のうちに「帰ってこられる」のではなく、その日のうちに「帰ってこなければならない」のです。つまり、時間が短いというだけで、安全を保証するものではないということです。


 日本人は三大なんちゃらや、日本なんとか百選というものが大好きです。登山家の中でもそういう向きがあり、とにかくこれらの山に登ること、踏破することが目標になっている人がいます。それ自体が悪いことではありませんが、そこに功名心が芽生えてくると途端に登山不適格者になりうる。無理かもしれないが、それでも登らないと百名山の踏破が遅くなるから…などという思いが文字通り道を踏み外す遠因となっているのです。羨望のまなざしはさぞ気持ちのいいものでしょう。自分に自信も持てましょう。しかし、一時の気の迷いで人生を台無しにしてしまいかねないということも忘れてはなりません。


 山は哲学といわれます。釣りの世界にも釣りは文学という言葉があります。山についてはそれぞれが答えのない答えを出す趣味で、釣りは自然の中で糸を垂れている間、誰もが文豪になれる趣味です。ただ、本書において著者は山には哲学があるかのような物言いをしますが、他人の哲学は真っ向否定。認めるところがありません。小姑のように重箱の隅をつつき、仕舞いには人の食事にまでケチをつける。こういうものが山の先達としてもてはやされているとするならば、山は虚学ではないのかと。哲学などといっておきながら、他人の試行を許さないような連中をみると、世界の最高峰、登頂不可能といわれる山頂にヘリで降り、アタックしてくる連中の目の前で旗を振り倒してやりたいといういたずら心が湧いてきます。かつてテレビ番組で女性芸人が登頂に成功した際は下山が天候不順で危険だからとヘリを用いた際、登山家の風上にも置けないクズ呼ばわりをしたアルピニストが、最高齢でエベレストに登り、同様にヘリで下山した方を絶賛していたときにも同様の感情を抱いたことを覚えています。


 登山不適格者は確かに増えたのでしょう。しかしそれは、登山が体系だったものでなく、指導すべき登山家たちもまた、未熟であることに原因があるのかもしれません。





※本文内で虚学という表現を使いましたが、学術的な意味での虚学ではなく、価値のないもの、メシの食えない学問という意味で使用しております
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