聞くと見るとは大違いというが、見合い写真と同等ないし、それ以上に違っているのが大衆文学。名作と呼ばれ、名前程度は知っている作品、教科書で断片的に触れた作品、様々だろうが、本当に理解しているかといわれれば、文学を専門にしている人間でも難しい。微に入り細に入り知識を持っている読者が偉く、それ以外は論じてはならない、アンタッチャブルな領域に見える大文豪たちの世界。そうやって守り通した結果、現代の文学は見事世代間断絶してしまったのだが、その辺は別の話か。しち面倒臭いことは抜きにして、日本人として日本文学を名前程度しか知らないのはいただけない。作品は読めないが、著者の上辺だけでも撫でておきたいならば、本書は実に具合がいい。
 

  私は志賀直哉の文章こそ美文と考えておりますが、ならば志賀が好きかと問われれば、そんなことはまるでないわけで。本書にも描かれておりますが「城の崎にて」では当たらないだろうとイモリに向かって石を投げ、イモリを殺してしまいます。一方、志賀本人は山手線にはねられて城の崎に湯治にきていたわけで、「自分はひかれても死ななかったが、イモリは偶然にも石に当たって死んでしまった」などと世の無情を悟ったかのようなことをヌかします。現代では大炎上必至。「山手線にはねられてんじゃねえぞ」「動物虐待じゃないか」「それを自慢げに書いてメシを食うとはふてえ野郎だ!」などと、追い込みをかけられるのは間違いない。


 作品は完成品を見て評価することが鉄則。作品への愛情を制作者への愛情に深化させてはいけない。作品論などといいながら、作品ではなく著者の人柄や経歴を根底に置いた議論ばかりなされるのは嘆かわしい。大文豪の書簡集(私的な手紙をまとめたもの)などというものがあるのがいけないのだが、その傾向は今後もますます強まる一方ではなかろうか。これから平成の、そして新たな年号の大文豪は、Facebookやブログ、掲示板の書き込みまで漁られて、死後云々されると思うと、なんともやりきれない。この監視社会にあって、純文学は生き残れるだろうか。かつての大文豪ならこの難局、いかに切り抜けるものか。駐屯地で割腹した方以外は潰瘍で筆も執れなんだのではなかろうか。



 
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