出光氏といえば、近年なにかと話題の百田氏の小説『海賊と呼ばれた男』のモチーフとなった偉人であるが、「偉人是聖人ならず」などといわれるように、成功した人は生きている間は何かと非難され、くたばって月日が経てば大人物であるかのように語られるものなのです。そんな中で、本書は氏の情愛を中心にとりあげて、今の(といっても親本は昭和時代の作)冷たい世の中に一石を投じてみたいという内容となっている。
 

 本書最大の見どころは、出光氏が「少数精鋭」についての考えを明らかにしている点であろう。少数精鋭を盾に(言い訳して)首を切るのはいかんぞ、というのである。実に情愛に満ちた経営者である。一般企業ではそんなことはできやしない。そして、許認可事業、電気や石油、タバコに塩といった絶対的商材を扱っている企業でもないといえやしないことだ。


 開始数行で早速毒づくことになってしまったけれども、少なくとも、家族同然に社員を思えというのは業態を考慮せずとも厳しい。社員のため、その家族のためと思って仕事を増やし、割り振り、給料を与え、会社を大きくしたとしても、それに不満を抱く社員は必ずいる。新事業を立ち上げ、社員をとり、そちらが大成功したらば、自分の社内の影響力が減じたと怒る古株社員が社内や社外で悪い噂を流し、上司や会社に嫌がらせをする。給与も相場よりずっと高いにも関わらず、賞与も出しているにも関わらず、人は暴れ、辞めていく。私はそんな姿を何度も見ている。その度に経営者たちは悲しそうな顔をする。こんなに愛しているのに、もっともっと皆を幸せにしたいと願っているのに…と、綺麗事ではなく心底思っている経営者は一定数いるのだ。(その情熱、情愛が社会常識に照らして常に正常とはいえないが)


 従業員はその職場、その職場において「独立」していると出光氏はいう。この言葉を見て怒りを覚えはしないか。「お前たちは会社を辞めて独立するというが、そもそもお前たちはお前たちの仕事の範囲で独立しているのだから、辞める必要があるか。お前たちは奴隷ではないんだぞ」と、経営者にいわれたとして、あなたはどう感じるだろうか。今の言葉でいえば、「マジブラック企業」「社畜乙」と一蹴して終わりではなかろうか。私もそう思う。そして、そう思わない。


 ややこしいことだが、私は自主独立して仕事を持っている。従業員はいない。しかし、会社にも雇われている。こちらには部下もいる。つまり、経営者であって従業員ということになる(もちろん会社側には許可を得ている)。だからこそ、従業員、経営者双方の考えがよくわかる。出光氏の言葉は、情愛に生きる経営者にしか響かない。独立を志す「だけ」の、今の仕事から「逃げたいだけ」の従業員には届かないのだ。見ている世界がまるで違うのだから当然だ。経営者には経営者の、従業員には従業員の論理がある。相互いにそのことを理解し、認めようとせねば、いずれも幸せにはなれない。


 ビジネス関係の編集者をやっていた仕事柄、独立し成功した経営者も、独立を志し、地獄を見た人間もたくさん見てきた。そこで見つけた成功者と失敗者の決定的な差というものがある。それは、情愛でも、信念でも、欲望でもなく、人間力だった。総合力といっていい。成功する人間は、独立開業で失敗する人間の二回りずつ、すべてのステータスが高いのだ。仕事も覚えたから、人脈もあるからと独立した人間が大抵失敗するのは、仕事の能力や、知識といった一点でしか経営能力を捉えられていないためである。経営者が「愛」だの「信念」だのと訓示をするのは、彼らが数値化できない総合的な何かを高めきったからに他ならない。


 とまあ、こう書くと、従業員気質である方からすれば、神だの霊界だのの類いかと思われるのではないかと思うから、最後にオチをつけておこうと思う。情愛の人と呼ばれる出光氏であるが、学生時代の知り合いがいるからと取引銀行を鞍替えしたことがある。人は学友、先輩後輩を大切にされる方なのだなと思うだろう。しかし、遠く離れた視点から見ればさに非ず。鞍替えされた銀行にも担当者がおり、家族がいただろう。彼らの生活はどうなる。ウチ一社くらい…と済ませていいものか。皆がウチくらい…とやるために、江戸の世以降、情愛なき時代となったのではなかったか。


 目玉がふたつに鼻ひとつ、口がひとつに耳ふたつ。同じ人間だもの、結局はそんなモンなんだというお話。


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